はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

ショーペンハウアー先生へ

僕は、先生を尊敬しています。

今、先生の著書「幸福について」を拝読している最中であります。

独りで生きるという事が、幸福の価値を最大限に高めること、また、独りでこそ労作は成し遂げられるのだということ、

高貴なるものにとって、下卑た者などは関わらぬ方が良いという事。

そういった言葉の数々の重みに感嘆するばかりであります。

しかしそのうえで、僕は悩むのです。

今の僕は、世界…というより他者という存在に、否定的なニュアンスを持っていないということ、そしてそれは、ある程度の距離感があればこそであるということ、一方で、他者という存在を好意的に認識したいということ、

他者を、下位の存在であると否定する勇気、いや、判断力でありましょうか…そのように決めつけられないのです。

人は、生きていけばいくほど長い時間を過ごしたことになる。その時間の中で育まれた価値観、得た能力等がある。そしてそれが、僕にはなし得なかったことだとか、思いもしない分野で高い能力を発揮しているだとかもある。

ほんの一場面において、他者がばかげたことをしていると見えても、その「馬鹿げた」と思うのは僕個人の価値観であり、他方からみれば、それを高等なパフォーマンスであるかもしれないとか、何かの芸の可能性として昇華できるかもしれないとか、そのことにも何か価値があるのかもしれないと思えて、一概に馬鹿げたと決めつけることに確証、自信も持てないのであります。

そして、同時にだからこそ、それが一際僕の心を揺さぶるものであれば、そうであるほど、知りたくもなります。

その思いが、先述した「他者という存在を好意的に認識したいということ」に内包されるのです。

 

ああ…今、こう書いていて気付きました。

先生は、みずからの幸、不幸についての想像力に限界を設けるのがよいとおっしゃっていましたね。

僕はどうやら、自己と他者の関係、その具体的な好意行動の応酬において幸福がもたらされるという考えに囚われてしまっていたかもしれません。

ですから、他者とのやり取りにどのような未来、幸福がもたらされるか、つまり「その先」を考えることに想像力を費やすことは辞めにします。

純粋にその時、自身が「好意的な、楽しいという感情を抱いた」という事実そのものを自覚をするに留めます。

先述した、いわば他者への探究心ともいうべき心の動きも、これを忘れずしていられれば心の平安を保っていられそうです。

 

しかし…僕の根本的な不安たる、「他者を唾棄する勇気を持てない」ということへ、自問自答ができたわけではありませんし、僕の中では、同著の中で、今まだこのことに関する言及がないことにも、不安を覚えてしまいます。

僕が先生の綴る言葉一つ一つに頼りすぎているのかもしれません。

ただ、この僕の根本不安と、「幸不幸への想像力を抑制する」ことには、関連性があるように思えます。なので、自らの不安を快方へと導く糸口は、先生の著書の中にも記されているのではという気もしてきました。

 

僕は愚かで、莫迦者であり、先生が吐いて捨てるように思える下賤な民の一人であるかもしれません。

そのような身で先生の著作を拝読する事、図々しいことはこの上ないかもしれません。

しかしどうか、傲慢ではありますが、こうして著書に触れたことを、まずは僕の個人の人生の向上の糧として、ひいては人類全体の為として大切な糧となるべく、決して無駄にはしないと努力すると表明させていただきます。そのうえでどうか、畏れ多くも僕のような者が先生を知る事を赦して頂きたいのです。