はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

写真

f:id:nagisaseer:20200314204812j:image

GフレームのZ3号機。部分塗装と墨入れをしみた。肉抜き多いので黒く塗って誤魔化すとそれなりになる。

 

 

f:id:nagisaseer:20200314204835j:image

映像研のアニメ観た後になんか描いたもの。

手癖でRX78ガンダム描いたことねぇなぁってなって適当に描いたもの。

 

f:id:nagisaseer:20200314204850j:image

配達中、とても近づいても逃げなかったカラスさんがいたので、そっと無音で撮った。

その後離れてみてもしばらくここにいた。

なんてここにずっといたんだろ。何で僕近づいても離れなかったんだろ。

理由はどうあれ僕が近づいても逃げないでいてくれたの嬉しかった。

 

f:id:nagisaseer:20200314205005j:image

シングルランクマ、キョダイラプラス構築パクって潜ってマスターにあげた。

シングルバトル、クッションポケモンという概念を知っているかどうか、そして実用感覚が身についてるかでだいぶ変わるなと思った。

完全に、今作は「数値で受ける」より、「数値を落ち着かせる(ダイマを凌ぎきる)」ゲームへとシフトしたんだなぁという印象。ポケモン種族値プールもさることながら、攻撃>防御のゲームシステムだもの。

 

 

・映像研には手を出すな!

f:id:nagisaseer:20200314205024j:image

 

f:id:nagisaseer:20200314205429j:image

金森氏のキャラ造形めっちゃいいんだけど。世の中こういう人がいるおかげで成り立ってる。割とまじで。

このセリフもいいよな。ツイッターは能動的に仕掛けていくためのツール。そうでなければ呑まれる。

 

憧れるというか、自分のそばにめっちゃいてほしい。

 

・100分de名著「幼年期の終わりアーサー・C・クラーク

f:id:nagisaseer:20200314205445j:image

 

f:id:nagisaseer:20200314205456j:image

これが1953年時点での「ユートピアの定義」と指しても良いはずだ。

これ、現代の理想郷のイメージと全く違わない。

70年近くも前に、現代的理想社会システムのイメージ像があるということに、本当に震えたよ。アーサークラークさん、天才どころじゃない。

同時に、それだけの年月を経ようとも、僕らの「理想」のイメージ像は更新されることは無かったとも言えるよな。

哀しい事実。

 

 

f:id:nagisaseer:20200314205509j:image

幼年期の終わり自体、その物語構造の鮮烈さにシビれた。色褪せることないどころか、とてもシビれてしまった。僕がSFびいきな所があったにしてもだ。

 

この物語は、それ自体が収集つかなくなり、暴走して終わった印象もある。

おそらく、作り手さえも物語そのものの問題提起やテーマ論に明確な回答を(その時点では)用意しえなかった。

物語そのものがブラックボックスというべきか。とにかく圧倒されてしまった。

 

この作品のテーマ論へ氏独自の回答は、自作「都市と星」で用意されることになるのだという。作品を通じて自身のテーマの回答、ブラッシュアップを重ねていく。

 

富野監督もそうだったな。カッコいいぜ。

 

『FOLLOWERS』泣いちゃった。

"汝の道を進め、そして人々をして語るに任せよ"

 

めっちゃめちゃおもろかった。

全人類に見てほしい作品であった。

 

僅か9話という尺の中で、ジェンダー論と社会生活論、SNS論がとても盛り込まれていて素敵であった。

 

視点が視点だけに、女性側での偏りがあるかもというのと、どうしても尺の都合上大団円サクセスストーリーへのつながりがスムーズな感じもあるのだが、そういう理屈は抜きにして、演出もテンポもガッツリ最高。

 

最終回なんかコンテめちゃめちゃカッコいい。

 

 

以下、グサっときて画面をスクショ(物理)したもの。

だ、大丈夫、だよね…?

むしろこんないい作品だから是非Netflixで観てくれという宣伝の意図がある。

最初の1ヶ月無料やぞ!!その内でも観ちゃおう!!

(というかこの全9話、1話45分という構成が、有料加入しなくてもいいからとにかく観てほしいという気概すら感じる。楽しく世の中を変えていきたい意欲をも感じる)

 

f:id:nagisaseer:20200312202817j:image
f:id:nagisaseer:20200312202750j:image
f:id:nagisaseer:20200312202738j:image
f:id:nagisaseer:20200312202801j:image
f:id:nagisaseer:20200312202746j:image
f:id:nagisaseer:20200312202822j:image
f:id:nagisaseer:20200312202742j:image
f:id:nagisaseer:20200312202808j:image
f:id:nagisaseer:20200312202812j:image
f:id:nagisaseer:20200312202734j:image
f:id:nagisaseer:20200312202805j:image
f:id:nagisaseer:20200312202758j:image

 

 

ガンダム の話をしよう。

戦争という、闘争という状況があった。

その中で戦う器は、人型を模した巨大なもの、モビルスーツであった。

 

戦争は、戦は、身体が丈夫で、鍛錬を積み、それをするにふさわしい者たちが行った。

大人の男たちだ。

 

時代の武器がモビルスーツいえども、戦うのは、男であった。

 

しかし、戦争は男たちだけで進むものなのだろうか。男たちだけの想いと、血と、行動で決まるものなのだろうか。

 

そうではないことを示すものもまた、時代の武器たるモビルスーツである。

武器とは、機能さえ果たせば、誰が使おうが同様の効能を果たす。

使用者が誰であろうと、引き金を引けば誰かを討てる。

 

一市民の少年にすぎなかったアムロは、武器を、モビルスーツ____ガンダムを手に入れた。

 

アムロにとってのガンダム。それは、大人の男たちの世界への入り口であり、武器なのだ。

 

 

で、現代社会における僕らの武器は、SNSなのだ。僕らにとってのモビルスーツは、ガンダムは、SNSなのだ。

 

 

 

 

僕は、SNSが嫌いだと以前書いた。

その状況もまた、時代の武器を使っていないという意味において、そして、嫌う理由においても、完全に健全なものではないのだ。

 

僕は今、おそらく、時代の武器を使いこなさない選択をしている。

そして、その選択を改めて問い、「その選択をして良かったか」「その選択は何であったか」を、明確に答えられる必要がある。

 

僕は、ガンダムに乗っていない。

 

 

とにかく!

Netflixはサブスクの中でもかなり『いいもの』の部類に入って、人間度を上げてくれるような感覚がある。ありがとうと心底思う。

同じことはYouTubeにも言える。

 

僕が今好きな映像コンテンツは、NetflixYouTube

 

 

 

 

スクショ晒し文化きもい消えればいいのに

Netflixで思わず観てしまっていたのが、
「Followers」だ。Netflixオリジナルドラマ。

いわゆるデジタルネイティブ世代付近、インターネットっ子どストライクな年代である僕は
、やはりこういった
SNS世代の現代劇」というものに、ひどく惹かれる。

で、その描写が巧みでテンポもよく、わかりやすく進むがために思わず視聴しているというワケだ。

 

断言するが、僕はTwitterが嫌いだ。
インスタグラムも嫌いだ。LINEは普通だ。

 

Twitterというものに、浸かったが故に「嫌い」なのだ。

この作品にて、SNSへの批判的論調がいくらか織り込まれている。
(決してSNSを批判しているわけではない。そのような主張の人物がいるという描写にとどまっている)
「現代は個人の価値が数値化される時代だから嫌だよね。昔の人がうらやましいなあ」
まさにそれだ。これこそ、僕がTwitterを嫌う一番の理由だ。

そして誰もが、この「数値」に取り憑かれる。僕でさえそうだった。

フォロワー数。いいね数。リツイート数。リプライ数。ツイートアクティビティ。
イヤでも、時折きになるのだ。
どんなに、「そんなの気にしぃよ!」という態度でいても。
「数を確認すること」は、誰に見られずとも、数回画面をタップさえすれば、出来てしまうもの。

「俺さ、フォロワー数なんて気にしてないからさ」
そんなことを言う人間がいたとしても、こちらはその人のフォロワー数が気になる。
そのツイートのRT数が気になる。だって、大きい方が説得力出るんだもの。

そうだ。文脈如何より、「数値の大きさ」だけが重視される。その大きさ=正しいと、直感的に判断する。してしまう。

これは、論理の飛躍であるにも関わらずだ。
そして、それが論理の飛躍であることを考えさせてくれない。考える暇を与えてくれない。

何故か。「他のツイートが、すぐさまTLに流れてくるから」だ。
一つ一つの情報を精査する、考える時間など、与えてはくれないのだ。

その分、情報がいっぱい得られる?
いやいや、情報だらけになって迷って、しどろもどろになるだけじゃないか。
こういう作業を、生業とする人ならいい。それが仕事であるならば、その作業との向き合い方を覚えるからだ。
でも、そうでなければ。プライベートとして利用するならば、余計なストレスとなる一方だ。

 

...どうやら脱線してしまった気がするが、
これが、僕の言い分だ。


閑話休題?タイトル文の話題に戻ろう。

「スクショ晒しきもい」。
こういうものに、生理的嫌悪を覚える。

同作の第四話「炎上」にて、
主人公・なつめが、同じくモデル達のグループLINEの「某ブランドはまじありえないよね?」とディスりながらなれ合う流れに、「なつめもそうだよね?」と同調することを迫られ、それに屈して自身も「まじでありえない、仕事だからたまたま使っただけ」と述べてしまう。グループの一員が、鬼の首をとったとばかりに、すかさずその発言をスクショ、Twitterにてアップする。それが拡散し、SNS上ではなつめに対する「マジかよ最低だな」というような罵詈雑言の反応で埋め尽くされる。
それまで躍進していたなつめだが、一気に信頼が地に落ちる...というシーンでラストが締めくくられる。

 


吐き気がする。


このような事に関わる生きものは、人間じゃない。「動物のやること」だ。

「動物のやること」。その場その場の条件反射と、その瞬間を食いつなぐことのみが目的で、基本的にやることなすことが対症療法的。何かの目的に沿った行動を紡いでいくわけではない。

「人間のやること」。目的があり、そのための行動をし、社会との折り合いをつけ本人なりの折半をし行動をつなぐ。基本的に「その場しのぎ」の段階を脱している。


ダレかを蔑むためだけに、自分が気持ちよくなりたいがためだけに他者をないがしろにし、悪意のある投稿をする。
それを見た人物は、他人の不幸は蜜の味とばかりに、気持ちよくなって「なつめも地に落ちたな」と書き込む。その人より、自身の方が立場が上だと錯覚し、それで気持ちがよくなる。
当たり前だが、これは何にもならないやり取りだ。
実に不健全な気持ちよさのループ。この問題を解消したところで、マイナスをゼロにしただけで、時間的精神的リソースの無駄遣いである。

ダレも、人の心を大事にしない。
だから、こんなことが起きてしまう。

なつめも、人の心を大事にしなかったのだ。
そのブランドの、アイテムの制作陣、その場を用意してくれた人たち、決して一人でその場にいるわけでもないに関わらず、それを蔑ろにし、ブランドを貶す。
批評ではない。「貶す」なのだ。

これが発端であったといってもいい。


だからこう言いたい。

「人の心を大事にしない世界を作って、何になるんだ!」(カミーユ並感)

だから僕は考えている。
人の心を大事にするというのは、どういうことなのかと...

テーマが飛躍してきたところで終わり。

人の心を大事にすることと資本主義社会はなかなか相容れないけど、
頑張って折り合いもつけられるということを最近思えてきた。

 

 

それにしても、こういう考えることを想起させてくれる作品を作ってくれるというの、本当に素敵なことだと思う。

そういう意味では、間違いなく名作だ。

2020/03/10 ドラマ症候群

「すみません、あの助けて。助けてください」
2月某日。配達中の事である。午前も4時という早朝の時間帯のことだ。
配るべきあるアパートにバイクを停めた瞬間、
一人の女性が僕の元へかけよってきた。
明らかに、ただならぬ様相であった。
「え、あ、はい?どうかしたんですか」
「えっとあの、警察呼んでもらえますか!友達が、友達が暴れ出して...」
「わかりました。今、呼びますから。とりあえず、落ち着いてくださいね」
突然のことに僕も狼狽した。
不意打ちすぎるシチュエーションに、実際僕も落ち着いたものじゃないのだが、言葉だけでもひねり出してみせていた。

警察には電話で連絡をとりながら、女性から事の経緯について簡単に聞き出し説明をする。
今は某アパートの前にいますと伝え、しばらく二人で待っていた。

僕は、どう言葉をかけていいか分からなかった。

彼女の家に誰かが泊まりにきていて、その人物と一悶着があったことは事実だ。
身なりは、思い切り寝間着であった。足をみると、裸足であった。
「友達が暴れ出して」。それで一目散に逃げてきたのだろう。
だから靴もはかず、携帯も持ち出せず。それで偶然目に入った僕に連絡を取り次いだということはすぐに分かった。

だけど、彼女の心境がわからなかった。その「友人」との関係性がどうで、どんな経緯でこんな事になったのか、そして、このような事態に対して、どんな感想を抱いているのか。

そんな事は、語れるはずもない状況だということは分かる。そして、僕も聞けなかった。
彼女の様子は、明らかに怯え、震えていたからだ。

少し寝間着に目を見張ると、血の跡らしきものもついていた。推定ではあるが、断定しても良いだろう。血がついていた。

「もう少しで来ると(警察は)言っていました。」
「どのくらいですか?」
「10分くらいです。あと少しですよ、すぐ来ると思います、よ?」
語尾が少し頼りなげになってしまう。ヘタレてしまった。

「あの、これ履いててください。裸足じゃ寒いでしょ。これも」
僕は、自分の履いていた冬用の厚手のブーツと、ポケットに入れていたカイロを手渡した。
それくらいしか出来なかった。
野次馬根性なのか、ヒーロー気取りなのか、ナンパ師根性なのか...僕はこの女性の心を少しでもいたわってやれればという気持ちが働いていた。
だから、何かを話しかけたかったが、自分の持っているものを渡すくらいしかできず、それ以上は何もできなく、無言の間が続いた。

アパート玄関前、雨よけの前で待つ。雪が降っていて、ー10度は近くなろうという寒さだ。
物音のしない時間帯であった。彼女が歯の根をならし、震えて思わず声が漏れるような、そんな声とも吐息ともわからないが__それさえ聞こえるような静けさだった。


やがて、警察がきた。

彼女は警察に保護され、現場まで同行した。僕も途中までついて行き、事情の説明と連絡先だけ教えた。
配達途中だったので、それで引き返した。
「○○さん(彼女の名前)には、お大事にとお伝えください」
それだけ伝言を頼んだ。


この話は、コレで終わり。
その後は特に何もなく、以降つながるドラマをも予感したが、あれから3週間ほど経った今も、全くの音沙汰もない。
彼女が平穏無事で暮らしていれば、それで良いと願う。


現実とは、大きな事があってもそれがドラマとして続くかはまた別で、わりと無茶な行動と覚悟や決意がなければ、そもそもドラマとしての続かせようがないものだと分かる。

それでも、不謹慎な物言いだが、僕は人生で初めて、

「親方!空から女の子が!」のようなシチュエーションに出会うことができた。

これは正直___驚喜すべきことなのだと思う。


「連絡先とか聞けばよかったのに」
この事を話すと、先輩にそう言われた。
向こう、それどころの様子じゃなかったですよ、怯えてましたもん。僕もいきなりで慌ててましたし...

僕はそう返したが、正直今思えば、先輩の言う通り聞けばよかった。
それか、連絡先を渡すか。
”時の運を逃した”って感じが、正直してしまう。

 

_________________________________________
どことなく、姉の姿が重なった。弱っているときの姉は、こんなだった。
彼女の”友人”は、暴れているときの姉のようだったのだろう。


僕は、姉を思い出していた。
姉は、心の疾患を煩っている、そう診断された。

心当たりは確かにある。いわゆる症状というのが強く出たとき、時間も関わらず泣きわめいたり、目がすわって、他者を攻撃する言葉を口走ったり。(「殺す」とか)

後は、被害妄想だ。
「ネットで私のこと言われてる。みて」そう言われ、僕は見てみたものの、なんてことはない、
何かの人物の紹介記事だった。共通点は、姉の名前と一部が同じという程度であった。


そんな姉と、どう向き合っていけばいいのか分からなかった。
理解の浅い頃。
「また発作を起こしてる。面倒かけるなよ!馬鹿」
こんなことさえ思っていた。
「鬱だなんだといって、学校をサボっているだけじゃないか。いいよな」
こうさえ思っていた時期もあったのは事実だ。

しかし確かに、目に見えている、耳に聞こえているもの、五感を通じるものは、脳というフィルターを通じてでしか知覚し得ない。
逆に言えば、脳がそう知覚さえしてしまえば、本人にとってそれは事実となる。
「それ」___一般的に幻覚や幻聴とされているものだ。

いつしかこの脳科学のようなものを頭で理解したとき、少しずつ姉の事を受け入れることが出来てきていた気がする。
姉の前でも、「穏やかな気性でいる」ことを心がけたのだ。
しかし、決意と時を同じくしたころ、姉には彼氏ができた。

芯から優しい人である。
だからその人が、姉にとっての癒やし、救い、拠り所となってくれると思えた。それは僕だけでなく、家族一同がそう思っていた。

同時に、その彼氏に、姉の面倒の一切を押しつけてしまえるような、「身の楽さ」をも感じていたことは事実だろう。

僕は少し拍子抜けをした。
「よし、姉と向き会える。」そう思ったとき、姉にはすでに求めるべく、救うべく人がいた。彼氏という存在が。


その人物に嫉妬はしたか?それはよく分からないが、ほんの少しした。
しかし姉が救われた気がする喜びも大きかった。
肩の荷が降りる感覚がしたのもそうだ。

ただ、僕自身、姉と向き合えたのか。
これだけが、未だに心残りである。

しかしこの心残りは、ドラマ症候群とでも言うべきか、それに由来する心理だろう。

ここでいいたい”ドラマ症候群”とは。
「君と僕」の関係性が、起承転結でしっかり収まっていることだ。
今回は、「姉と僕」になぞらえるとしよう。

________________________________________
「起」:姉は心の病を患っている。僕はそれを疎ましく思っていた。「うるせぇ!」そんな罵詈雑言さえたまに口走ってしまうくらい、僕は倦んでいた。おろおろする姉。両者の関係はあまり良いとはいえない。

「承」:大学の授業で、空きの時間が増えてきた。それを使って何かをしたくなった僕は、本や人間ドラマが主軸のアニメを、ひたすら読んだり観たりした。僕は、人の心と向き合うこと、理解することを学んだ。そしてふと思ったのは、姉との関係性であった。今までは不満をぶつけるだけだったが、そうではない。僕もまた、良くなかったのだ。

「転」:「今までごめんね」僕は姉にそう口を開いた。急に何、とは返された。しかし、これが契機となり、お互いこれまで、どんな思いで生活をしていたか、互いをどう感じていたのかを話し合えた。

「結」:姉と僕のわだかまりは解消され、以前よりも打ち解けた様子で話し合える間柄になった。そして姉には漸く彼氏ができる。僕はそれを心から祝福した。時折、姉・姉の彼氏と僕を交え、ほほえましく交友することさえできるようになった。
________________________________________

こういう風に、ステキなお話の流れが、現実で起きることを期待していた。
これは半分程度事実だが、ここまですんなりと事が運ばれた訳でないのだ。

この「理想と違う」現実に、心残りをしている、という訳だ。
それが僕の言う”ドラマ症候群”だ。

現実は、ドラマじゃない。

現実の登場人物は、「君と僕」だけじゃない。
お話に最終回もない。どこが最終回になるのかも分からない。
劇中のエピソードだけで事が進むわけでもないのだ。
両者が、互いの目の見えないところで、別々のことをしている。

頭では、理解できているつもりだが、本心、心残りをしてしまうんだな。
だから僕は、”ドラマ症候群”から抜け出せないでいる。

 

ここまで書くと、僕が姉の話の前に書いた女性にも、似た想いを抱いていることが明白だろう。
突然目の前に女性が、「助けてください」と現れた。
僕にとってこれは、物語の「起」だったのだ。

だから、続きがあると思っていた、そして、誰かと心底向き合えるチャンスが来たと思った。しかしそうではなかったし、そのように出来る行動を起こせなかった。

これが事実だ。


________________________________________


「モエラの台詞じゃないけど、運命は自分で作ってみせる!」

思いもよらぬ事に嘆きそうになったとき、僕はこの言葉を思い出す。
今も思い出している。

嘆くだけじゃどうにもならない。
努力はしなくても、割り切ったっていいんだ。

だけど、割り切ろうにも時間がかかる。
備忘録のように、こうして記述することで、向き合うと同時に、割り切ろうとしているのが、僕という人間だ。

2020/03/08

f:id:nagisaseer:20200308204700j:image

こないだのINCの結果。参加賞だけほしくて4-1で終えた。PTは去年12月末の環境のもの。時代遅れすぎる。バイバニラの一貫性って感じしかしない。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

日曜日は、夕刊がない。
だから午後は、外回りをする時間となる。

今日は晴れていた。
さらに、お昼前後に暖かくなって晴れていたこともあり、だいぶ雪も溶け、路面状況は好転しつつあった。
そのため、ストレスなく回ることができた。
ま、寒いのがたまにキズというところだろうか!

上司方とは、入れ違いであるとか、方や休みであるとかで、とやかく言われることなく仕事を終えた。こういう日もあっていいだろう。
こういう日だけでも不安だが。

 

 

f:id:nagisaseer:20200308204854j:image 

(ここで謎の gフレーム  のZ3号機を貼り付ける)

 

<最近観ていたもの>
空挺ドラゴンズ
エモい作品。群像劇でありながら、組織の新入りが悪戦苦闘して成長していくというビルドゥングスロマンをしっかし根幹に入れているため、やはりまだまだ社会の若輩者たる僕なんかはすげ~感情移入しちゃう。タキタとジローの二人に。
ジローとカーチャのドラマなんかは激エモですよ。ちょっと案外ジローモテボーイのムーブしててあったまくるが!でもいい感じに青臭いのがたまらないしカーチャがかわいい。
自分の地域でも、地上波放送はしているのだが、おもろくてNetflixで探したところ、既に12話まで先行配信されていたので、思わず一気見をした。が、最終話を迎えるのが恐くて(ロスが嫌で)最終話を残している。てか原作買うしかねぇ。
ちなみにこの作品、個人的見解だが物語構造は面白いほどにガンダムと一致している。
クィンザザ号はそのままホワイトベースで、ここを依り代として生活をするのだから、必然的に構成員たちは疑似家族という共同体を形成する。「つながらざるを得ない」「協力せざるを得ない」、これがクィンザザ号とホワイトベースアークエンジェルでもアーガマでもイサリビでもディーヴァでも何でもいいけど)の共通点である。
そして、主人公(格)が少しずつ社会化されていくという点。これは主にタキタとジローが担っている。ガンダムでは基本的に主人公一人にその立場が重点を置かれているが、こちらは分散されている印象。その分散の仕方もかなり巧い。
ガンダムだと、主人公機たるガンダムカタルシスや強化という、いささか商業主義(プラモを売る)を意識した物語構造にせざるを得ない。必然的に主人公への成長描写の比重は重くなるだろう。

ドロヘドロ
Netflixで視聴。
作り込みがすごい細かい。そしておもろい。ひたすら血なまぐさい作品、バイオレンスアンドバイオレンスという印象。なんかほんと自分でもなんで見続けてるのか分からないけど不思議な魅力がある。とにかく作風が独特。というかそれは原作のテイストなのだろう、よく映像作品でそのままの魅力を出していると思う。
バトルシーンのキャラクターの傷つき方、死に方、かなり工夫が凝らされていてかつ誤魔化しはほぼほぼしないしで手抜きがない。本当にハイクオリティ。

ガンダム0083
Netflixで視聴。たまたま候補で出てきて観てしまった。
やはりパワーのある作品である。
ポストガンダムのクリエイター達が、富野監督はいないからこそ「俺たちでの観たいガンダムを作ろうぜ」という気概で、とことん拘った世界だというのが伝わってくる。
この作品の方向性は、ガンダムというよりスターウォーズに近い気がする。
作り手がもう作りたいものをそのまま作りたいだけ極限までやりきって作った結果ユーザーも観て楽しめるという構造。
 この作品、作画が良い、オーパーツだとよく言われる。確かにそうなのだが、この作品の真骨頂はどちらかといえば、「全てのカットを勝負カット」にしている所な気がする。つまり、どのカットでも色指定、背景、特殊効果に拘っていて、誤魔化しカットがほぼ存在しない。そういう「手の抜かなさ」こそがこの作品の恐ろしい所だと思う。
いや、本当に恐ろしいよ。全13話、OVAということを考慮しても、リソースの割き方絶対おかしいよ...
あとコウ・ウラキの成長描写も、実に自然に描かれいてる。成長描写の自然さ、丁寧さで言えば、ガンダムシリーズ中でも彼がナンバーワンなのではないだろうか。まあ、それでカタルシスと相反する部分が若干あるのは事実だが...。

○バビロン
善悪、正義論への問題提起がなされていておもろかった。
物語構造は...なんか「?」が多くてインターネッツのレビューを観ておおいに納得をした。曲世がただのチートモンスターで、遊星からの物体Xやエイリアンといったモンスターパニック映画と本質は同じ、というコメントを見て、激しく同意をした。
なんというか凄い惜しい作品っていう印象が否めない。
ただ、発想の始点、舞台設定と物語の絡め方なんかは、やはりウィットに富んでいて知的な雰囲気を味わえる。が、ハッタリに呑まれないようにしよう。

 

なんか

凹んじゃった。

社内で報告することは報告しても余計なこと言わんで!とか、いや何それ、みたいに言われたりとか、なんかたまたまやることやったつもりでいても「いやいや」って反応されてとても凹んだ。

帰ったら買い置きしているお菓子をつい食べ過ぎてしまった。

 

適切なこと言えなくてごめんなさい。

どっからどこまで伝えればいいんだよ!とか思う。

 

やっぱりメンタル弱いなぁと実感をした。

歳の割に甘ったれてる感じあるんだよなぁ。

何と比較して「歳の割に」って言ってるんだろ。

自己を卑下するのは、自分と周囲をすり減らす行いでありますね、あまり書くのはよくないだろう…!

 

 

自分の心に素直になりすぎることの弊害で、おそらく心の中で、起きたことのリアクションを大きく受け止めすぎているような気がする。

 

鍛錬をしなきゃね。自覚ができるのは、悪いことだとは思わない。

 

 

※この日記は後付投稿というズルをしている。

2020/03/05 現状認知と自己肯定

ネットサーフィンをしていて、このような書き込みをみた。

「"自身が広く賞賛を受けるクリエイターや芸能人、選手etcになった妄想をし、その輝かしい未来だけをあれやこれやと想像する"____これは、現在自分が、”今”本来注ぐべきエネルギーを、見当違いな未来の方向へと注いでしまって、エネルギーを損耗させる行為である。だから、実現可能な範囲でのエネルギーを注ぐべきである」
というような内容だ。

非常に刺さる書き込みだった。同時に、とても腑に落ちた。

僕は、勝者に、成功者に憧れる。
そして、やはりしてしまう。「僕がその立場の人間になったら」という妄想を。
恥ずかしいが、ワナビ願望甚だしいのだ。

自分が俳優になったら、声優になったら、絵描きになったら、評論家になったら、監督になったら、自衛隊員になったら、超・優良ホワイト企業勤めの新鋭若手になったら、有名配信者になったら、学者になったら、...

人々の"物語"を聴くたび、視るたびに想起する。

これは、間違いなく現実逃避であった。


自分のやっていることの、根幹を、掘り下げて、掘り下げていくと、
突き当たることがある。

"自己顕示欲"、"承認欲求"だ。

今は、その欲は収まっている。
しかし、たとえば周囲者の成果などが見えやすい場にいると、それを思い起こさせてしまい、アレルギー反応かのように心が引っ張られ、気持ちだけが疲れ、焦るばかりで何もせずに終わってしまうというのが自分であった。

この欲求は、ゼロにしたいが、持ってしまっている。

僕は一時期Twitterを再開した。ポケモントレーナーとしての道を再び選択したからだ。
同時に、これを使って有名者となることを望んだからだ。

しかし、自身より先に成果を上げる者、その情報など、いくらでも入ってくる。
そうする度に、先の発作が僕を締め付ける。

これが、本当に精神にきた。

まるで、全人類が、僕より成果を挙げていているような錯覚さえした。
まして、今の仕事の労働体制もまた、僕の劣等感を浮き彫りにさせる一要素となった。
つまり、多くの人は、対戦数を稼ぐ余裕もあれば、土日は休みでオフ会に行ったりできる。
僕はそうでなかった。いや、対戦数は、時間は作ろうと努力すればできるが、月の休みは六日間、一日平均11、12時間ともなろう労働時間と、帰宅後の家事を除いた時間で巧く捻出することは、本当に大変だ。

「皆と生活リズムも、プレイスタイルも違う」のだ。

これが応える。心に本当に応える。

だから、Twitterをなるべく見ないようにしている。
自分のペースというものを揺らがされるから。揺らがされるだけ揺らがされて、大して何もしてないのだから、今まで。

Twitterは、ほぼみない。
それで情報アドバンテージが衰えようとも。それ以上に僕の心が傷つくもの。
これで良いのだと思う。

これが僕のプレイスタイルだ。人生のプレイスタイルでもあるだろう。

そして、こうして、自分の、心に負荷をかけないやり方で遊んでいこうと思う。
ポケットモンスター・ソードシールドというゲームを。ポケモンバトルを。


これは、お絵かきやガンプラ作りにもいえる。

いつぞやの日記で、僕は書いた。
ポケモン強くて、絵も上手いナオさんって言われたい」と。
それは言われれば嬉しいだろう。
でも、言われることを目的にするのか?

現状を無視し、成功する自分だけをイメージして、疲れるだけなのは、結局前進なんてできやしない。


だからタイトル通りのことを行う。


"現状認知と自己肯定"だ。


僕は、忙しい仕事をしている。休みの少ない仕事をしている。
でも、職場の人間関係に大きく悩んでいる訳ではない。
どころか、若手の貴重な戦力として大切に育ててもらえているという、ありがたい事実をかみしめている。
そして、仕事は徐々に増えていった。上司から、任されてきた。
素直にいえる。任されるのは嬉しい。

 

業種そのものは、入ってみればまるでブルーカラーのような気がして、体も心もズタズタにされた気持ちだった。
でも、それもどうでもよくなった。ブルーカラーとかホワイトカラーとか、そういうラベリングはいいんだ。本当にどうでもいいんだ。

僕には、「ここでないどこか」を求めている時期があった。
要するに、自分がクリエイターになれる場所、だ。

しかし、心が求めるだけで、具体的な行動は大してしない。
結局、ちょっとお絵かきをして、それも描きたいものを描くだけ、転職に向けていざ動くかといえばそうではない。
要するに、「ここでないどこか」を求めるのは、「転職のための前向きな心構え」などではなく、「現実逃避」だけだった。今の自分を蔑ろにし、輝かしい自分だけを考える。


いつまでも、「無限の可能性を秘めた若いタマゴ」なんかじゃない。

今、本当に手が届きそうなことをしてみる。
とはいえ、転職は確かにしたい。でもそれは、確実にいえるのだが、今じゃない。
僕が転職を望むのは、でもやっぱり、「休日の少なさと、労働時間の変則的さ」からだ。
なんでかというと、これ、物理的に体にダメージが来ることが明らかだからだ。
特に後者。この仕事、すべての出勤日が深夜勤ならまだしも、日勤の日も度々ある。
日によって起きる時間を変えるというのは、体内時計をセットするも何もない。
これは確実に人間の自律神経を犯していくことだろう。そして、その先にあるものが何か、僕は知っている、それは病気だ。
腸内出血とか、脳内出血とか、さらには若年性ながらがんで逝ってしまう(最近記事にした)、恐ろしいことにつながる。
いや、自律神経の乱れがそれらにつながるとは言っていない。
乱れがトリガーとなり、ストレスが貯まる、それを解消するために、たとえば暴飲暴食、飲酒や喫煙、諸々に走り、結果として...という話だ。

業務内容も、さらに言えば休日数も、書きはしたが、これらの条件はいいのだ。
労働する時間帯。これが本当に不健全で、これを社内に身を置いて脱することは出来ないと感じるから、いずれの転職を希望しているという次第だ。

て...本当、話ズレちゃった。
そもそも何の話だったか。

"現状認知と自己肯定"。

絵描きとしての僕。ポケモントレーナーとしての僕。自分では自分をそう認知しているが、特段上手いわけでも、強い訳でもない。にも関わらず、有名強者になることだけを望む僕がいた。

 

それをすることが楽しくて好き。

 

これは絶対的な価値観であり、忘れてしまっていたんだな。

お絵かきも好きだ。ポケモンもすきだ。ガンダムも好きだ。
で、こういうのはオシャンティな趣味じゃないかもしれない。

なんか、オシャンティに趣味をこなすカッコイイ若者、なんてのも目指していたけど、
それもワナビ、誰かに見られたい思想だった。


究極的に、誰彼の評価なんてどうでも良くて、趣味においては、動かしたいだけ手を動かせば良い、そして、趣味の域越えるとか、本当にそうなるのなら、道として考えるのもアリか、というのだろう。まあ、先のこういうことなんて考えてないけど。身の丈にあっていないし。


地に足をつけよう。
我ながらイイ言葉を生み出したと思う。
"現状認知と自己肯定"。

 

頑張って自分を好きになろう。
ちなみに、今そうなれるためのちょっとした努力をしているといえば、
30秒ドローイングを1日欠かさず続けるということ。で、目標は、それが66日間、さらにいえば死ぬまで続けること。

実はこれ、したりしなかったりだった。なので、毎日こなすということだ。
これだけは続けたい。筋トレも毎日!といいたいが、ムリしない。


あとは、目標とか、やっていること、やりたいことについては書きません。
実際してなかったとき、やっぱそれで落ち込むもん。
今本当に「できそうだな~」という事だけ書いておく。30秒ドローイング

f:id:nagisaseer:20200305122015j:image

4日目。100日後に何もしない30秒ドローイング

 


終わりのない ディフェンスでもいいよ 君が僕を 見つめ続けてくれるなら~~♪