はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

ポケモンバトルを諦めるということ

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画像はシーズン22・使用PT

カイオーガ・対黒バド構築に対して高い勝率を誇ったものの肝心のザシアン+化身ランド、ガエンゴリラのサイクル系構築に圧倒的不利という構築になってしまった。

 


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メインとサブで参加。

 


大負けした。

シーズン22は、時間の限りをプレイしようと企んだ為、終了直前はサブROMをも用いてランクバトルに参加。メイン・サブの2ROMで対戦に望んだ。総計600試合近くの対戦を10日間ほどでこなした。文字通り朝から晩までランクバトルに潜っては試合し、PTを調整し、また潜って...という日々を繰り返していた。参考動画にYoutubeで有名プレイヤーのチャンネルを漁ったり等。

 

...と、いうようなことはしていた。

でもさ、だめだった。

 

だめだったことを羅列していく。

・自分を顧みずに対戦をし続けてしまったこと。勝ちや負けに対して、その要因を分解して捉えることが出来ないまま対戦を続けてしまった。体感的・直感的経験則を頼りに戦うが故に、プレイングにムラがでる。
・結局、上記のようなプレイスタイルを容認してしまえる僕の現状。潜り始めた時期が9/21、バトル期限が10/1の8:59までとはいえ、その10日間+αの時間、僕はほぼ自由に時間を使える(失業保険認定対策としてオンラインセミナーの受講を2回挟むという予定はあったがせいぜいその程度)。その間無限に時間が使えると錯覚し、戦い続けさえすれば上位にはいけるだろう、と甘えた態度でプレイし続けてしまったこと。大学生や社会人など、時間が限られている人が、その使える時間の価値を重視し、一回の試合から得るものが10あるとすれば、無職の僕は3くらいしか摂取できていなかったかもしれない。
・しかし、社会的ステータスの問題は後発的な要因だと思う。いちばんは、コミュニティ的問題だと思っている。ポケモンというゲームは、強くなるにあたって仲間がいた方が間違いなく強くなれるし、楽しい。というか、正直上に行くならば必須条件ともいえる。仲間と独自形成されたスラングミームを共有できるのはもちろん、そういった文化を発端としてファイトスタイルや構築論を共有し発達し合うことができる。切磋琢磨という言葉がふさわしいだろう。そういった文脈を通じて、気付けば強くなっている、気付けば勝てるようになっている、その経験がそのまま成功体験になり、もっと上を、上を...という正のスパイラルがはたらく。これらの過程において、「ポケモントレーナーとしての自分」にアイデンティティを見出すことができる。
 これは、すごくいいことだと思う、この事象は本当に賞賛すべきすばらしい文化だと思う、思うのだけど...僕の気質なのだろう、なんというか、すごく雑な言葉遣いしかできず恐れ多いのだけど、言ってしまうと...こういった文化が、どことなく体育会的世界観というか、優等生的世界観に由来するモノだな、という印象を抱いてしまっている。すごくキラキラしていて、形の整った、「すばらしい」という言葉だけで埋め尽くされているかのような、言葉全てがポジティブで、大本営発表でいっぱいの世界にみえてしまう...そして、僕は「ポケモンをすること」と、「コミュニティと迎合すること」をほぼイコールで捉えてしまっている。で、コミュニティ文化に、ハードルの高さを抱いてしまっているが故に、ひとりでポケモンをする。先述したが、「ポケモン強くなる」と「強い仲間がいる」はほぼイコールで結ばれる。じゃあ、ひとりだと...強くなれない。限界がある。だから、こんなザマだ。
 ただ、これは僕の主観の話である。自意識過剰、という言葉が案外ぴったりハマるのかもしれない。べつに、僕一人が発言したり、発信することに誰かが一々どうこう思ったりはしないはずだ。もし思うことがあったとしても、他の人にとっては、数秒か、長くとも数分かすれば忘れてしまうくらいの些末ごとだと思う。頭ではそんなことが分かっていても、やっぱりコミュニティの場へ踏み出すことをためらってしまった。そもそも、こうやって悩むこと自体がストレスなのだ。だから、ひとりで遊んだ。限界があるだろうな、とはどこか分かりつつも、それでも、浅はかに「勝負ごとなんだからワンチャンあるんじゃね」というありもしない期待を胸に、ランクバトルの海に潜り続けてしまった。そして、頭の片隅でなんとなく思い描いていた結末が、現実となった。
 ...暗いお話かな。なんというか、頭の中から、綴ろうとする言葉はいっぱい出てくるのだけど、それらがまとまったテーマをもたない断片的なものばかりだから、記述するのは控える。「ポケモンバトルをする」「上を目指す」ことと、「それを取り巻く現実/SNS環境」をとりまとめて考えてみたとき、僕はそういうものに疲れる思いをどこか抱いた。そういう思いを割り切れる人はたくさんいるのかもしれないが、僕は圧されてしまう程度の人間だった。ということなのだと思う。才能がない、という言葉でよくあらわされることだと思うが、僕の「才能がない」の中身は、つまるところ「能動性のなさ」だったのだと思う。人の要素をぬすむ要素。...情熱。そういうものが多分、もうなくなってしまっていた。
 ポケモンってそれだけのゲームじゃない。競技的に戦い、勝利を得て、大勢から賞賛を得て...それだけがポケットモンスターというゲームじゃない。架空の世界のなかで、その世界に根付く生きものとしてデザインされたふしぎな存在。彼ら、彼女らが、どこからきた存在なのか。同じく、そこに根付くかもしれない人々と、どんな関わりを持っているのか、共生関係は。...って、色んな事を考える余地を味わわせてくれている。ポケモンたちが覚えている「わざ」は、なにもポケモンバトルという試合で勝つための「必要手段」なんてことより、そのポケモンの生来環境と根付く、生育環境を切り開くために習得した処世術的な「技」だったり、そういう動きを他にも応用できるから「わざマシン/レコード」を覚えられるのかもしれない。...作品世界観考察的な価値観なら、こんな風にも考えられるし...そうだな...世の中には愛着のあるポケモンを活躍させるためのPTを組んで遊ぶプレイヤーだっている。もっと色んな遊びかたがある。それでいいよな。いいと思う...。

 ひとの人生の挫折だとか、諦めだとか、失敗だとか、敗北のお話は、世の中の創作物においても多く取り扱われる題材だと思う。趣味の範疇の世界程度で何を、と思われるかもしれないけど、僕はこの取り組みの結果に、やっぱり喪失感を抱いている。だけど、これはいい経験なのだと思う。ひとの悲哀のお話は、悲しいけれど、現実というものの絶望、どうしようもない哀愁を教えてくれる不可欠な題材だと信じているから。もしかしたら、そうせずに済む方法も、もっと良い方法もあったのかもしれない、と考えられるきっかけになる。だから、悲しいお話も、「いいお話」なのだ。
 だから、僕の経験も、「いい経験」なのだ。悲しいけれど、「いい経験」。