はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

「ボクとナイフ」

憂鬱になることがある。
僕の憂鬱のパターンは、二種類しかない。
1に自己嫌悪、
2にルサンチマンだ。

自己嫌悪の方がいくぶんか潔いだろう。
しかし、今はルサンチマンの憂鬱の気分だ。

心の嫉妬モードのスイッチをオンにすれば、怨念や憎悪の言葉の数々を容易に綴ることがきるし、きょう、一体何度「しね、殺す」と連呼したのだろう。

いかに健康的な運動や生活サイクルを営んでいようと、そういう日もある。

本当は、呪詛の数々を記事に綴るつもりだった。
しかし、それは面白みがないと思った。

憂鬱のなり方のパターンが単調でさ。
ちょっと...面白くないね...我ながら。

面白くないついでに、今日は…いや、今日もしょうもない話をさせてください。

 

https://nico.ms/sm1670463?ref=nicoiphone_other


「ボクとナイフ」。


はじめてこのFLASHを見たのは、たしか小学2年生か5年生の時。
初見時に最後までこのFLASHを観れたかどうかアヤシイ。
小五のとき、確実にこのFLASHにハマった。
自作の再現マンガを自由帳に描いてクラスに持って行った。見せびらかしたりしてたかな?
今思えばひどい厨二病だよ。どう見てもこういうの分かってるオレカッケーアピールです。
ただ覚えてることが一つ。
背が低めのメガネのマニア系っぽいY君が僕の描いたそれを見て、「自分もこういうの作ろうかなー」と言っていたこと。
すごくよく覚えている。嫉妬か感動か嫌悪か、どのような情動かは定かでないが、彼の感情を動かしたのだ。動かすことができたのだ。その手応えを感じた。
(て、他人のフンドシで見せたようなモンなのにね。)

そして、このFLASH自体への感想。
僕は、全面的にこの「ボク」へ共感をしている。
ネグレクト。アイデンティティの喪失。
だからこそ叫びたい___声でなくて、ナイフによる叫び。
そのナイフを以て、無視を決め込む大人を倒すことで、人に見られるということ。
きっと、見られたいから叫ぶ。見られたいから刺す。

そう解釈している。

僕自身の家族生活について。
僕には4つ上の姉がいる。姉は、心の病を患っている。
明確にその兆候を表してきたのは、姉が中学生のときだったと思う。
学校へ行かなくなったり、入院をしたり、何かと話題に事欠かない生活を送っていた姉。
家族...というか、父母は、そんな姉とのやりとりが多かった。気がする。

姉がいないときのリビング。親同士で相談を交わしがちだったと思う。
いい話題ではない。リビングに隣接しているのが、僕の部屋だ。
リビングと僕の部屋を隔てていたのは一面のブラインドのみ。
なモンだから、会話内容が聞こえていた。
入院がどうのとか、金額がどうのとか、それで喧嘩っぽくなったりもした。
聞きたい話ではなかったと思う。
だから、僕は、イヤホンをしがちだったと思う。
でも、聞きたい気分の時もあった。
それは、姉を憎みたい気持ちになったときだ。
自分はこんなマジメに生きているのに、姉は家族に迷惑をかけて、不登校で、クズだ。
ほら、父さんも母さんもまた姉のことで困ってる。やっぱりクズじゃないか。
そう思いたくて、きっと優越感に浸りたいような気持ちにも近いだろう、そんな心情に浸りたくて、父母の会話を聞くこともあった。
感覚的には、まとめサイトとかいって底辺ニートのトピックをあえて見てバカにする...みたいな、そんなようなものだ。
中学時代の僕は、姉の身の上なんて同情する余地をもたなかった。
高校生の時もそうだったかもしれない。

僕は、錯覚していた。
姉のせいで、ネグレクトを受けている気がした。

両親の姉へのそれは、親の愛とは似て非なるものだろう、親として子に果たすべき責務を全うするというか...そんな所だろう。
そんな煩雑さの傍ら、両親が姉の事へ手一杯だから、弟たる僕には、必要最低限の処置を施された...と、贅沢にもそう勘違いしていた。

けど、事実そんなことはなかった。
父は年に何回か僕をキャンプに連れて行ってくれたり、スキーにも連れ出したりした。
毎年始めやGWには家族旅行に行くのが定例だった。毎夏は家族でのBBQが主流であった。
いっぱしの家族らしい家族的コミュニケーションは、していると思うのだ。

それで、なんで僕はこうもネグレクトされていると、感じてしまうんだろう。
頭では、親は僕に好くしてくれていたとわかる。
それなのに、正直今でも、どことなく空虚な、愛情が欠けたような家庭であった感覚は否めない。

それで、家庭が居場所なのか、わからなくなった。
でも、他になじめる場所はあった。
学校にも、インターネットにも、交流する人はいた。

だけど、僕の嗜好が蓄積していくにつれて、交流の距離感が開いていったのだと思う。

"話が合わない"。根本的に、そういう感情が沸きがちであった。

大学時代の始め、ポケモンを必死にやっていた。
当時、コミュニティに迎合していた。

でも、思う。

話が合わなかった。

ゲームが好きな人は、ゲームをする。
僕は、ゲームはポケモンくらいで、他はプラモとか、何かを考察するとか、そういうことに時間を費やしがちだった。迎合をするときもあったが、どことなく合いきらない。

オタク同士でも、気質が合わないんだって思った。
むしろ、僕がその合わせられない少数派なんだと思う。

ポケモンもたいしてやらなくなった。 
ポケモンをすることでコミュニティでのアイデンティティというか、繋がることが担保されていたので、やらなくなれば、コミュニティとは切断される。
居場所ではなくなる。アイデンティティも消失する。

実生活の友達は少ない。ネット上でも、いつしか交流がなくなった。
なくしたのかもしれない。

それを、ネグレクトというのか。
ネグレクトというのは、他責的すぎやしないか。

だけど、まちがいなく、僕のインターネット上の発信などは、そのパワーが大きいTwitterなんかにおいては、迎合しづらい性質であることは分かっていた。

そのことは、ショッキングだった。
僕が考えたり、創意工夫を凝らし、表現を考えた一言よりも、
仲間が多い人間の「つかれた」という呼吸のような一言の方が、いいねをつけられ、評価される。

そのような事実は、「お前には生きている価値はない」と言われているような感覚がした。
社会からのネグレクトを感じさせるのだ。

Twitterなんかが社会の全てなんかじゃ、全くないのに。
それなのに、勝手に無視されているのだと、ルサンチマンを募らせる。

しかし、だからこそだ。
そういうときにこそ、「いつか急にビッグになって大量のいいねを浴びて、時の有名人にのし上がってやる」なんて突拍子もない妄想をしたりもする。

その考えは、僕の中では同FLASH中の「世界征服だってできる。ボクと、ナイフで。」に繋がる。

どちらも、実現しようがない幻想を心の内に抱いているのだから。
そうだ...僕が共感をするのは、「ボク」の肥大化したどうしようもない自意識だ。

世界征服.....したいね...ボクとナイフで...