はずレールガン

もがくしょうもないオタクの脳内

ひとりなのに、心の中はうるさいね

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 以下、話題を全く絞らない、心の中の散発的な文章を記述していきます。いつものことか。

 世界にたくさんの人がいて、そういう営みがあるという事をわからせてくれるのは、いいことだと思う。

もいわ山は、小学生時代から、数年に一度、父によく連れて行ってもらっていた。

 山登りとしては本当に初級コース的な位置づけで、片道3時間程度、往復しても半日あれば終わるような...そんなコースであった。

 しかし、ここであげた写真のように、山頂からの望む景色のよさは一品で、心地の良いものだった

...と、これまでは、自分たちの足で上っていたもいわ山。ここには整備された登山者用の山道もあるが、ロープウェイ乗り場もおかれていたり、車で山頂まで登れるよう道路も敷かれていたりする。

 この日、僕は一人でもいわ山に赴いた。自分の足で上らなかった。ロープウェイという、テクノロジーの手によって、また、それを行使する権限をカネを消費することで手に入れる...ということで、自分の足で上る というステップをカットして、頂上まで登った。

 ひとりでそこにいるということ。誰かを誘おうかとかも考えた。でも、それをしなかった。ひとりでいたいんだ。他者がいると、その場で発作的ににランダムに動きこと、考えることに半ば承認の可否を問うというステップが発生する。つまり、コミュニケーションだ。

 誰かといると、ここに赴くことによる「景色を拝み、それについて感じる」ということに、「一緒にいる人とのコミュニケーションについて感じる」という要素が付加される。「もいわ山に赴く」という僕の行動...いや出来事?が、複雑化する。

 だから、誰も誘わなかった。気心の知れた人なんかを誘えば。あって話したい人とかを誘えば。それはそれで、楽しかったことだろう。

 でも、誘わなかった。

 それでいいのだと思う。

 僕は、というか、今現在の僕は、人の自意識について、意識しすぎる。そして、その自意識に、干渉したくない。それはそれで、自意識過剰というやつなのだろう。自分という存在が、他者に悪い影響を与えるだとか、楽しんでもらえなかったらどうだろうとか、まあ色々、考えてしまうというか...感じてしまう。

 もいわ山の山頂に到着し、そこを散策していたとき、いちばん印象的だったのが、アンテナらしきものがいくつも無造作にと思いきや全方位的に取り付けられた鉄塔だ。もいわ山の頂上、札幌市、いやその周辺の街並みまで一望できてしまえるような、絵画的に映えそうな情景の中に無造作に配置されたかのような、人為的な効率性を感じさせる、それでいて無機質そのものの存在たる鉄塔さん。山の上という標高の高さを生かして、電波というか、それに類するような通信にかかわるなにかを飛ばすのに、ここは便利な場所なのだろう。メンテナンスしようにも、アクセス性が高いからなおさらだ。

 そんな、効率性をにおわせる鉄塔さんが、自然的風景の中に、山頂から周囲を一望するときに、イヤでも目に入って来る。近場に設置されているのだから、目に入ってしまう。

 「景色を眺める」「自然を眺める」という行いでもの思いにふけるとき、その「もの思い」の中にも、よくできたエピソードを夢想することがある。

 例えば、その景色の中に、ふと、はばたく鳥がめに入ったら、「ああ、あの鳥にも、ひな鳥だった時期があった。それが今や、こんな立派な大人になって、この悠然な大地の中を羽ばたいている。なんと素敵なことか!」だとか、その山道や、付近で見かけた労働者に、「今日も一日、お疲れ様です。あなたたちのおかげで、私たちは生きています」というような、労いの念を抱いたりだとか。「高いところからみてみると、自分の悩みはなんてちっぽけだったのだろう!太陽が、自分に笑いかけてくれているかのようだ」と、清々しい気持ちになる、とか。

 が、そういった「もの思い」は、人為的だ。「そういう風に自分が思いたくて、思っているもの」だ。

 そういう自然的なものたちがふんだんに織りなされた景色の中に、割り込んで屹立する鉄塔さん。鉄塔さんの外観を構成する要素は、数多くの直線、円、描画ツールを駆使することで描けてしまいそうな、ソリッドな印象そのものだ。外観を彩るのも、一色の灰色と、アンテナを覆う白のみ。ここに、鉄塔さんそのものへのエピソード性など、愛着など、感じにくいだろう。

 鉄塔さんは何も言わない。自身を構成する骨子部が錆びようが、その塔に鳥が止まろうが、もしかしたら破壊活動の意思をもった者にバズーカ砲だとか爆弾だとかで倒壊させられようが、鉄塔さんは何も言わない。自身が壊されたとして、山々の景色のなかにその身をおろそうとも、自身を分解してくれるバクテリアもいないのだから、ただときおりの雨風の中に錆びゆくだけで、存在するか、廃棄物として、発見されればいずれ回収されるかなどだろう。

 鉄塔さんには、自然物に対する能動性がない。作られて、存在し始めたときから、ずっと、鉄塔さんと、自身を構成する要素たちが、そこにあるだけだ。

 エピソードを起こそうとするならば、鉄塔さんと、生きもの。鉄塔さんと、周囲の情景。そういう風に、鉄塔さん以外のものを絡めなければ、エピソードにはできない。

 そのエピソードにおいても、鉄塔さんはなにもできないし、語れない。